1-E 就職~中国への語学留学 天安門事件

1987年に大学を卒業した僕は中国に絡むような仕事をしたいと考えて、ニチメンという商社に就職しました。当時ニチメンは中国に強いと言われていました。配属は財務本部で、想定していた華やかな商社マンとは違うものでしたが、上司や先輩からとてもかわいがってもらいましたし、相対する営業の方々からも非常に信頼してもらって、楽しく仕事を学べる環境が整えられていました。特に当時のニチメンの財務本部というところは、きわめてよくできた組織でありました。毎年新入社員を5-6名受け入れて、輸出・輸入・為替等々の基礎的なチームに配属させて商社マンだったらどこの部署にいっても必要な知識を叩き込みます。数年後には5-6名配属された新入社員は1-2名を残して、営業部へ転出されます。結果としてカネの流れを知る商社マンを育てようとしていたわけでしょう。さらには毎年必ず新入社員が入りますから、数年先輩までを軸とする教育システムが非常にうまく回っていました。よい部署に配属されたことは私の人生によい影響を与えてくれたと思っています。

商社に入ったからには海外にでたいという気持ちは常に持っていたわけですが、その思いは意外と早く実現することとなりました。

入社3年目1989年4月からの1年間、中国大連への語学研修が決まりました。留学先の大連外国語学院(現在の大連外国語大学)では、もう一度学生時代に戻ったような自由な時間を過ごすことができそうだと思ったのもつかの間、中国の街中に不穏な雰囲気が漂ってきました。中国国民にすこぶる人気のあったけれども、鄧小平の不興を買ってトップを退かされた胡耀邦が政治局会議の席上で倒れ死去したことに対して、哀悼の意を示す人々が天安門広場に集結し始めました。いわゆる天安門事件です。胡耀邦は明るくユーモアがあり民主的な改革を推進し、対外的にも良好な関係の構築をなしうるリーダーシップを持ち合わせた政治家でした。小柄だけど、ジェスチャーが大きく、明るい人柄は文革時代の冷たい中国のイメージを変える効果があったと思いますし、日本と中国の関係も彼がトップにいたタイミングが最も友好的な時代であったといえると思います。

ハンガーストライキに入った学生たちの動きは胡耀邦追悼から民主化さらには現政権打倒と過激化していきました。学生のデモは全国的な広がりを見せ、大連でも連日大規模なデモ隊が市街の中心を練り歩いていました。主張は過激でしたが、整然としたもので、暴力的な状況ではまったくありません。極めて知的な反対運動であったかと思います。
テレビでも連日アナウンサーたちが学生よりの報道を繰り広げていました。大連のデモ隊に一般の学生だけでなく、海軍兵学校にあたる学校の学生も制服でデモ隊に参加しているのを見たときに、この国は変わるかもしれないという前向きな期待を心の底から感じました、6月4日までは。

翌5日は中国のテレビニュースが一変しました。まず、アナウンサーはそれまで見たことのない顔ぶれに全員交代し、日々トップニュースで流れていたデモや天安門広場の報道は全くなくなり、今年はコメが豊作になりそうだなどという極めて穏やかなニュースだけが流され、NHKやBBCの国際放送で状況を知っている我々にとっては、報道統制というものすごく恐ろしい状況の中にいることを認識し、昨日まで感じていた前向きな期待は後ろ向きな恐怖となって心の底に溜まっていきました。

今でも不思議に思うことは、北京から800kmも離れた大連でさえ、翌5日の朝には学生のデモは全く見られなくなったことです。当時は長距離電話は極めて不便で一般の人々は電話局に申し込んで相手と繋がるまで1時間ほど電話の前で待っていなければつながらない状況でした。そんな環境にも関わらず、翌日早朝には学生たちは既に情報を得て、校内にとどまったということなのでしょうか。もちろん専用回線の電話を持つであろう行政や軍などは存在するわけで、学生への迅速な周知にも何等かの裏があったのではないかと想像を逞しくしています。

 



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