2011年3月11日 その日は若い部下が異動になるため、課のメンバーと送別ランチに繰り出した。当時オフィスは赤坂にあった。ランチはいとうという会社から徒歩数分の赤坂の奥まったところにあるお寿司屋で開催しました。少し高めだが、良いお寿司であり、かつ個室を使わせてくれてグラスワインもついているランチセットで高級感とお得感があり、ベテランの女性陣からも評価の高い店でした。
ゆっくりとしたランチと会話を楽しんだ後、午後の仕事がようやく落ち着いた15時前に地震が発生しました。
当時の勤務先オフィスは東京赤坂の赤坂サカスとTBS本社の向かい側にある築年数は相当古いビルでした。なにしろ1986年に私が大学生で就職活動しているときに総合商社のトーメンが入居していて、先輩に会いに来たことがあったビルです。阪神大震災よりも以前の耐震構造だからか、ビルが折れるかと思うくらいに揺れました。
当然ながら生まれて初めて経験する揺れでしたし、周囲のメンバーが本気でデスクの下に潜り込んだのを見たのも初めてでした。訓練ではなく非常階段を本気で下りたのも生まれて初めてでした。1階の集合場所で点呼でメンバーを確認した後は本日は解散すると人事部長が告げ、一旦階段で自分のフロアまで登ってオフィスを整えた後に、とりあえず自宅に向かって歩き始めました。
なんとなく関東大震災のイメージもあり、東京が震源だったのだろうと思いながら歩くと、電気屋の店頭のテレビのニュースで地震とそれに続く津波の映像が流されていて、震源が東北であることに気づきました。リアス式海岸で有名な東北の沿岸部は津波がリアスの三角の頂点に押し寄せ、津波のパワーをさらに増幅させるという状況が発生しました。
気仙沼では、その日20m級の津波の被害を受け、その後湾内に流れ出した燃料用の重油に火が付き、町全体が大きな火災に見舞われました。海から離れた陸に大きな船が流れ着いた映像を記憶している方も少なくないでしょう。あれが当時の気仙沼の状況です。全てが流されて港周辺は広大な更地になってしまいました。
この甚大な災害からの復興に何か役に立てることはないかと中小企業診断士、それも企業に勤める診断士たちが集まりました。会社での仕事をこなす傍らでボランティアとして、支援の方向性を模索しました。当初は気仙沼の方々に提言集をまとめて提出することからスタートしたようです。
ようです、というのは地震から1年後の2012年初めには私は中国北京に再度赴任し、日本を離れていたため、この活動の最初の段階には参加できていません。
その提言集の中の一つのアイデアが、復興商店街を回遊してもらうちょい飲みイベントとか街バルとか言われている商店街の盛り上げ提案でした。街バルは函館や銀座なども有名ですが、複数枚のチケットを一綴りにして、何件かを飲み歩いて、新たなお店を発見して常連になるきっかけにしてもらったり、観光客の誘致につなげたりを目的とするものです。
気仙沼バルはこうやって始まりました。私は開催の報を中国で聞き、帰国した暁にはぜひ参加しようと思っていて。2015年に日本に帰国した年の回からは毎年参加しています。
2015年の春に参加した時には、まだ気仙沼の港周辺は更地になっていて、プレハブで作られた復興商店街に10コくらいのお店が入っている、そんな商店街が町なかにいくつも存在するというような状況でした。
中小企業診断士の仲間たちは、会計を担当したり、飲食店と実行委員会のつなぎ役を担当したり、広報を担当してHPを立ち上げたりする役割分担を行っているのですが、私は当日はギター片手にステージで歌ったり、お店を回って、リクエストに応えてお客様と一緒に歌うという流しの役割を勝手に作って楽しんでいます。
お店側も盛り上がってお客様のお酒が進むので、大歓迎されていましたが、コロナ禍になりお店で大声で歌うことははばかられるので自粛した3年間でした。
今年も7月7-9日で気仙沼バルは開催されました。
今年もお店を回ることは遠慮して、お祭りのステージでの演奏にとどめておこうと思っていたのですが、なじみになった気仙沼駅に近い居酒屋さんで歌ってほしいと頼まれたので、こころおきなく歌わせて頂くことになりました。
一年に一度しか訪問しないのに、覚えていてくださるのは本当にありがたいと思います。
このお店で歌い、他のお客様と交流し、皆さんに喜んで頂けるのは本当にうれしく感じます。
来年はぜひ、またいろいろなお店を回って流しを復活させようとたくらんでいます。